今こそ甦れ「全共闘」

 先日、アルバイトの面接で福祉系の大卒者に会いました。親戚が脳梗塞で倒れ、要介護度4と認定されたことがきっかけで、福祉の道を志したそうです。ところが、実習で訪問する介護施設の現状は、大学が教えてくれた理想とは大違い。もはや誰でも知っていることですが、給料も信じられないくらい安いわけです。

 このため、資格を取得しても別の分野に行く卒業生が少なくないといいます。ある報道では、介護福祉士などの福祉系有資格者のうち、約20万人は別の仕事をしているそうです。

 そんな時に、マイケル・ムーア監督の医療制度告発ドキュメンタリーを見たわけです。イギリスやフランスやカナダは医療費は基本的にタダですが、アメリカでは保険会社が治療方法まで支配しており、しかもバカ高い。この違いはいったい何だというわけです。

 日本の医療制度は、アメリカに比べれば国民皆保険でまだまだマシな方ですが、それは医療関係者の高い倫理感に支えられているからで、救急患者のたらい回しや、産科医・小児科医不足など、明らかに崩壊の兆が見えています。いずれ、アメリカのように民間の保険による差額診療に移行するでしょう。そうなると、高度医療はカネ持ちしか受けられないという事態になってしまいます。

 そんな医療よりも深刻な問題となっているのが、老人介護です。このままでは介護疲れによる無理心中や自殺は、ますます増加していくことは間違いないでしょう。日本の産業社会は、田舎から若者を都会に集中させることで、大家族を核家族に解体してしまいました。家族が少なければ少ないほど、老人介護の負担は集中します。かといって施設に預けられるカネがなければ、必然的に老々介護となり、いっそ死んだほうが楽だと考えるようになります。

 テレビでは「誰かに相談して」といいますが、それで本当に解決できるのでしょうか。介護系の仕事は、今の日本では珍しく人手不足の業界ですが、前述したように、給料をどんと上げない限り、人が集まるはずがありません。かくて、介護の現場でも少数の職員に大きな負担がかかるということが続いてきました。

 これはどう考えても世界第2位の経済大国にふさわしい状態とは思えません。定額給付金の支給作業だけで800 億円もかかるのであれば、すべての予算を福祉・医療、それから教育に投ずるべきで、こんなことは誰でも分かる理屈です。

 ところが、政府はそれをしない。総理大臣の人気がどうのこうのなんて、もう関係ありません。税の再配分が不適切どころか、犯罪的に間違っていることは明白です。

 イギリスやフランスの医療費がタダなんてことは、マイケル・ムーアの映画を見なくたって、厚生労働省の役人や政治家はみんな知っているはずです。しかし、何だかんだと理由をつけて、あるべき理想を実現しない。

 どうしてそうなのか。マイケル・ムーアの映画では、極めて示唆的なコメントをするオジサンが出てきました。

「教育と健康と自信。これを奪えば、国民の統治は容易になる」

 そこでインサートされたのが、フランスのデモです。パリ中を埋め尽くしたかのような民衆のデモ風景があるからこそ、政府は医療制度を改めた。間違った行政をやれば、再び彼らは街中で旗を振るでしょう。何しろ、フランス革命の国ですからね。

 さて、いよいよ本題です。かつて新宿を騒乱させ、東京大学安田講堂にたてこもった全共闘の皆さんは、なぜ沈黙を続けているのですか。政治の季節はもう卒業したのでしょうか。それとも、牙をすっかり抜かれたのですか。

 彼らの世代は、すでに定年を迎えているはずです。もう会社も社会も、畏れる必要なんてないですよ。ボクたちは、まだまだ会社に従い、社会に従属しないと、食べていくことができません。でも、定年になって、65歳になれば年金も出るはずです。そして、あの頃に大学に行けた人たちの多くは、普通よりも豊かな家庭に育ったはずです。そうしたノブレス・オブリージュの発露が、あの学生運動だったのではないですか?

 なのに、なぜ今でも沈黙を続けるのでしょうか。もはや政治には何の興味もないのですか。皆さんが動いたおかげで、民衆も政治に目を向けました。決して若いやつの気まぐれな行動に留まっていたわけではありません。

 だからこそ、発言しましょう。あの時のようにデモを、シュプレヒコールをやってください。もしも「蛍火」が消えていないのなら、もう一度、ボクたちにかわって政治に声を挙げてください。

 もう一つ、国家や行政がこのまま変わらないとするなら、国からの補助金を一切受けない自治体を作りませんか。その中で、新たな税体系と再配分を構築するわけです。所得税やら消費税など国に持っていかれる税金は、これは仕方ありません。しかし、住民税などを何とかして、教育・福祉・医療を手厚くした体系を作るしかありません。

 企業はもちろんですが、年金暮らしのお年寄りを誘致することも考えられます。これはボクの持論ですが、保育園と小学校と老人ホームやデイケア施設をくっつけた複合施設も便利ではないでしょうか。子供の面倒を祖父母がみるなんて、昔はよくあった光景です。そうした大家族が解体されたのですから、もう一度、他人同士で復活させるということです。このように、考えれば、方法はいくらだってあるじゃないですか。

 地方分権などと掛け声は勇ましくても、国に頼る限り自立は無理です。しかしながら、おそらく国家レベルでは再建は無理だと思います。いわゆる「しがらみ」や官僚のムダは当分排除できそうもありません。だからこそ、地方自治体に期待したい。企業やベンチャーを誘致して、大きく育て上げるという努力も含めて、理想の自治体を作れば、それがモデルとなって全国に波及していくことになります。

 そうしたお手伝いも、昔の全共闘の皆さんならできるでしょう。最後の社会参加、政治参加といえば失礼かもしれませんが、今やらなければ、もうチャンスは残されていないと思います。

 かつて全共闘運動に憧れた一人だけに、心からそう思うのです。

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新しい「労働疎外」

 大不況の今ではもうないかもしれませんが、某大手印刷会社では、毎日、深夜バイトを募集していました。確か昼過ぎに登録して午後7時くらいから働き始め、朝になったら日払いで終了。ボクの場合は、中とじの週刊誌の製本で、印刷された大きな紙を機械に供給する仕事です。一本のレールの上に何枚もページが重なっていき、最後の段階でホチキスで止められ、端が裁断されると一冊の週刊誌の出来上がりとなります。

 筋力が必要になるのは紙を運ぶ時だけで、後は機械の前に立って、紙が少なくなるのを待つだけ。ただし、供給が遅れると「落丁」になるので、ボタンを押してライン全体をストップさせなければなりません。要するに機械の奴隷みたいな仕事ですね。

 夜中になると15分くらいの休憩があり、菓子パンと牛乳が支給されます。「これは気がきいている」と感動しましたが、結局、日給からしっかりと差し引かれていることを知りました。深夜に寝ないで立ったままですから、これは相当にキツい仕事です。しかも、相手は機械ですから精神的にもおよそ「やりがい」が感じられません。このため、バイトは慢性的に不足しているらしく、募集→選考というプロセスはカット。誰でも登録→採用というものでした。

 ともあれ、ボクのような日銭に事欠く貧乏学生には最後のより所であり、時々、このバイトのお世話になりましたが、何日も続けられるようなバイトではないので、行くたびに違った人たちが働いていました。知り合いがまるでいないというのも、いっそ楽といえば楽ですが、そのうちに1人だけよく見かけるようになったのです。そこで「あの人、よく見かけるのですが」と隣の機械に付いている人に聞くと、「オレもよく知らないけど、かなり長いらしいよ」という。こんなにキツい仕事を、よくも続けられるものだと感心すると同時に、もしかして演劇などの関係者ではないかと思いました。

 あの当時は天井桟敷とか赤テントなど演劇が盛んな時代で、それだけでは食えないけれども、昼間の定期的な仕事もできません。ボクの知人は、その道を諦めて就職するまで新聞配達をやっていました。ただ、それにしては年を取り過ぎていたし、どう見ても、そんな感じではありません。それに、誰とも会話を一切しないというのもヘンでした。その頃は、「世の中には変わった人がいるものだ」という感想しかなかったのですが、やっと最近になって分かったような気がしたのです。

 それはあるテレビ番組で、製造業の派遣切りにあった中高年のインタビューでした。彼の前職は不動産会社の社員で、もしかしてウソかも知れませんが、年収1000万円という時代もあったそうです。これはバブルの頃ならあり得る話で、ワンルームが流行していた頃は、給与+歩合で実際に月収100 万円をもらっていた不動産会社員を知っています。

 なのに、彼が退職して派遣を選んだのは、「営業ノルマと人間関係に疲れた」からと説明していました。ボクも、その意見はよく分かります。ライターという専門職でも、立場は下請けですから、ノドまで出た反論を飲み込むなんてことはザラにあります。近年は大流行のウツ病にしても、原因は人間関係と言い切っても間違いではないでしょう。長期に渡る過重労働も、いびつな人間関係から仕事を適正に分散できなくなった結果だろうと思います。

 それに比べれば、実は機械相手のほうが精神的には楽なはずです。残業が仮にあるにしても、時間がきたらきっちり終りです。仕事を自宅まで持ち返る必要はまったくありません。そこそこの時給であれば、プライベートもそこそこ楽しむことができます。

 おそらく、あの深夜バイトの常連も、同じ理由だったのだろうとボクは推察します。もしかしたら、あの後でより給料のいい製造業の派遣社員になっていたかもしれません。だから派遣社員の心がまえがどうのこうのというのではなく、新しい「労働疎外」が発生しているのではないかと思うのです。

 この言葉はもともと流れ作業の生産プロセスが発明された時に誕生しました。それまで、たとえば大昔のクルマは完成するまで同じ人間がかかわっていましたが、T型フォードから分業生産となり、ドアを取り付ける人は毎日ドアだけを溶接するのが仕事になったのです。おかげで、「あのクルマはオレが作った」と言えなくなりました。これがいわゆる労働における「生産物からの疎外」となるわけですね。

 近年では、そうした疎外感を解消するため「セル生産」という方式も導入されており、たとえばコピー機を4~5人のチームで完成するまで担当します。これならチャップリンの映画「モダンタイムス」にはなりにくい。

 しかし、単純に効率化という視点だけなら、流れ作業のほうが優れており、毎日同じ仕事をするのですから、スキルも速度も向上していきます。不良品による歩留りも改善できるでしょう。

 現在ではコンピュータや機械でできることはすべて任せるようになり、人間は人間にしかできない仕事をするようになっています。そこで、人間しかできない仕事も、効率化を求めて、昔とは違った形で流れ作業=分業化されているのではないかと思うのです。そこでの精神的な「労働疎外」が、人間関係不適応やウツ病につながっているのではないか。だから、まったく皮肉なことに、製造業の流れ作業のほうが精神的に楽な仕事に見えてくるわけです。

 これはまだ仮説ですが、とするなら、人間しかできない仕事もセル・スタイル、つまりチームやプロジェクトとして、完成(あるいは販売・取引完了)するまで担当させるほうが精神的な負担は少なくなるという理屈になります。

 ボクのような昔の人間に比べて、今の人たちは意識がかなり変化してきました。率直にいえば、「打たれ弱い」のです。学校では「良い子」だった人ほど理不尽への耐性に乏しいと思います。だから教育の改善や、ガマンしろ、人間力をつけろと叱咤激励することも必要でしょうが、スキルや知識は後から勉強できても、意識や精神なんて簡単には鍛えられません。だから、ホワイトカラーの仕事も「セル生産」を一つの参考にしたらいかがでしょうか。

 何よりも職場の人間が元気にならなければ、生産性の向上も効率化もあり得ないのですから。

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人はなぜ宗教を作ったのか

 人間における最も大きなイベントは、誕生と死です。それ以外にはあり得ないと断言してもいいでしょう。そして、誕生が社会的な出来事であるのに対して、死は個人的で孤独な出来事です。いかに親戚縁者が多くても、世界的に知られた有名人であっても、葬式こそ賑やかでしょうが、死そのものは個人として孤独のうちに迎えなければなりません。

 心中や集団自殺も何ら変わることはなく、息を一緒に引き取ったとしても、最後に見る光景はそれぞれに違うはずです。お金持ちも、貧乏な人も、家族に恵まれた人も不幸な人も、等しく死を避けることはできません。それなのに、あなたは死を根本的に、真剣に考えたことはあるでしょうか。

 ある人は、死んだら何もないという。まあ科学的にはおそらくそうでしょうね。でも、それであなたは安心して死んでいけますか。

 別に、このブログは宗教がらみじゃないので、それこそ安心してほしいのだけど、何だかホントに死ぬ直前まで死を無視して、私たちは生きているような気がするわけです。

 死は人生の一大事なのですから、実は1人で考えこんでも限界があります。物理学における新発見みたいなことですから、これは人類全体で取り組まないと分かるはずがないことだろうとボクは思います。人類は何千年もの歴史があり、様々な哲学者が死に取り組んできたにもかかわらず、今もって明解な答の出ていない超のつく難問に、素人の私たちは死ぬ直前に取組み、乗り越えなければならないのです。

 いや別に乗り越えなくても、迎えがくる時にはくるのですが、ギリギリまで不安にさいなまれることは間違いないでしょう。つまり、死に対する答まで自分で自己責任で用意しなきゃいけないのが現代なのです。

 でも、昔の人はちょっと違いました。死に対する常識というか、しっかりした概念がちゃんと準備されていたのです。それが宗教ってわけです。たとえば天国と地獄とか、浄土とかお釈迦様とか。いかに荒唐無稽であれ、死んでからこの世に帰ってきた人は一人もいませんから、その正当性は証明のしようがない。

 何だって最初に言った者勝ちですから、神様は1人かも知れないし、沢山いるかもしれない。証明は不要ですから、どうとでも作ることはできます。

 しかし、そうした「常識」がないのもまた不安であり、自分で独自の考えを作るのも大変だし、面倒だから、では、そういうことにしとこうかというのが、宗教の歴史なんだろうとボクは考えています。ただ、その中での論理性や首尾一貫性というか、やはり私たちへの説得力だけが問題となって、論争が繰り返されてきたのです。

 宗教という、いわば困った時に頼れる常識や概念みたいなものを、科学はすべて粉砕してきました。今ではほとんどの人が、死んだらゴミになると考えているでしょう。浄土なんてあなた、物理的に存在する空間などあり得ないとかね。

 だから、新しい「死に関する常識」を作らないといけないだろうなとボクは思います。その創造や構築を普通人に要求するのは無理です。ボクのような普通の人は、納得して信じるに足る「理屈」と「常識」がほしい。そのことは、とりもなおさず、どう生きるかに直結することになるはずです。だからこそ、昔の人は神を作り、宗教を作り、それを信じることにしたのです。

 既存の仏教の皆様は、このことをもう一度考え直してほしいですね。お布施や葬式代を取りまくる宗教ではなく、人の心をしっかり支えてくれる「理屈」と「常識」。これがボクたちには何より必要なのだと思います。

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「しかし」と「でもねえ」な人々

 ほとんどの場合、年上や目上の人が若い人や部下に使うケースが最も多いと思われる言葉です。「しかし」は、「しかし、そういっても部長!」てな感じで若い人も接続詞として使えますが、「でもねえ」は自分と同等かそれ以下の人にしか使えないので、「立場の言葉」としてカテゴライズできるでしょう。

 ボクはこの「でもねえ」を沢山聞いてきました。「しかし」の場合は、その後に何らかの提案や意見みたいなのがくっつきます。「しかし、流通対策も重視しないと販売チャンスを逃すことに」という感じですね。

 ところが、「でもねえ」は漠然とした懐疑の表明であり、どうにもボクはいい思い出がほとんどありません。いいと思ったアイデアや企画を出した時に、上司から「でもねえ」とやられると、これは90%くらい葬り去られる可能性が高いわけですね。その後に続くのは、「小売店がそれで反応するかなあ」といった経験則に基づく、根拠があるようなないような、まあ要するに「冷や水」になってしまうからです。

 論理に対しては論理で反駁できても、こうした感想や感覚に具体的に反論することは大変に難しい。「私はそうは思いません」の応酬では、話にならないじゃないですか。というわけで、こうした「でもねえ」が出てくるような会議は、常にネガティブな結論に終わってしまいます。

 そのせいか、本当のブレーンストーミングでは、「でも」とか「しかし」に始まるような反論をしないというのが正式のルールになっています。フラッシュ的なアイデアにいちいち反論・否定したら、いいアイデアなんて出るわけがないですからね。とにかく「何でもいいから思いつけ」ということがブレーイストーミングの基本ですから、奇想天外、突拍子もないような意見のほうが歓迎されなければいけない。

 それで出てきた「思いつき」を整理して、その可能性を精査してから、次第に企画として具体化していく。こういうのが本当のブレストであり、実は会議すべきことではなかろうかと思っているわけです。

 だって、ボクも会議にはいろいろと出席してきましたが、意味を感じた会議なんてほんとに少ないのです。大体は「報告会」とか「進捗確認」と呼ぶべきもので、意見の応酬なんて基本的にできません。中には衛星回線でテレビ会議という大枚なカネをかけておきながら、「そっちの進行は?」なんていう恐ろしいほどクダらない会議も経験したことがあります。こんなことは電話かメールか報告書をFAXすりゃ済むことで、ご大層な会議なんて時間のムダじゃないですか。

 恐ろしいほどのスピードで進行する今のような大不況期に、そんな会議を続けている会社はちょっと要注意です。あの麻生首相ですら、言葉だけでも従来の常識が通じない深刻な事態といっているのですから、今こそ新しい手法やアイデアや企画で、局面を打開していく必要があります。

 クルマが売れない、不動産が壊滅的な状態というのはおそらく事実でしょう。では、なぜ売れないのか、売るにはどうすべきかを考えなければいけません。ボクは、もっと奇想天外で、クルマのメーカーは今こそ飛行機を作ればいいじゃんと考えているのですが、あっさりと笑い飛ばされるか、「でもねえキミ」と言われるのがオチでしょうね。「しかし、航空行政はまだまだ規制ばかりだよ」、とか「しかし、アメリカが絶対に許さんだろう」というのであれば、どうやって規制を緩和させるのか、対アメリカ戦略をどのように構築すればいいかとなりますが、「でもねえ」という反論では意欲自体が萎えてしまいます。

 企画やアイデアなんてものは99%が失敗して当然です。新しいことには抵抗や苦労もつきものです。しかし、それを実現しようとするプロセスで別の新しいアイデアが見えてきたり、仮に失敗と分かっても、それはそれで次の成功のタネになります。

 そういうことを「でもねえ」族はツブしかねないことを是非理解していただきたいんですね。「しかし」と「でもねえ」は親戚というより兄弟以上の関係でも、内容はこんなに違う。

 ビジネスも人生も、常に王道を行くものが勝利します。奇手や奇策が長続きするものではありません。しかしながら、実は王道とは奇手や奇策から生まれてくるのです。もっと正確にいえば、奇手や奇策がなければ何が王道かも分からないでしょ。

 で、今は王道がたちまちのうちに過去のものになりつつあるわけで、奇手や奇策によって新しい王道を急いで探さなきゃいけません。それを「でもねえ」で封じてはいけないのです。

 そして、本当に新しいアイデアであれば、それが失敗するか成功するかなんて誰にも予想できるはずがありません。そこまで咬み含めながら否定する言葉だからこそ、「でもねえ」は「しかし」に比べてタチが悪い。これまでの延長による発展も必要ですが、突飛なところからの展開も将来の苗ではないですか。だから「でもねえ」をボクは撲滅したい。

 そう言いながらも、責任のある人は常に「でもねえ」と躊躇しつつ、悩みながらも苦渋の選択を繰り返しているんですけどね。

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「いわゆる」な人々

 誰にでも口癖があり、ついでにいえば特定の言葉が妙に流行したりもします。近頃ボクが気になるのは、テレビのキャスターが連呼する「見て取れる」なんですね。そう見ることができる、とか見られるとかでも済むのに、わざわざ「見て取れる」わけです。

 ボクの語彙の中にはないせいか、ホントに聞き心地が良くない。見て&取ってしまうなんてシチクドクて押しつけがましいと感じませんか。「こちらハンバーグになります」も奇妙な言葉使いだけれど(じゃいつ頃ハンバーグになったんだよと聞きたい)、あれは謙譲語の一種だろうと思うフシはあるのに、「見て取れる」は「どうだ、オレって分かっているぜ」と感じてならないわけです。おっと、この「……ならない」というのもテレビの常套句でした。嘘だと思うなら、テレビ朝日のモーニング・ワイドショーを見てください。

 長い余談はさておき、口癖のほうですが、最近「いわゆる」を連発する人に出会いました。何でもかんでも、アタマに「いわゆる」をつけるわけですね。これは「みんながいうところの」という接頭語であり、“ ”という意味になります。「これは、いわゆる“偽装”じゃないですか」という使い方ですね。

 この「偽装」の場合は、新聞で報道されているような「食品偽装」を暗に意味しているので、普通の言葉よりもちょっとニュアンスが深いのです。「いわゆるKY」とかね。

 ところが、そうした意味的な背景もないのに「いわゆる」を連発する人がいました。察するところ、「言葉尻」を捉えられたくないという防衛本能の発露という気がします。いわゆる、と前置きしておけば、いつでも「いわゆる、なんだからさあ」と逃げることが可能になるからです。ということは、これを口癖にする人は当事者でありたくないとか、責任を負わされたくないという感情が奥に隠されているわけですね。考えすぎかも知れませんが、こういう口癖の人は自分で決断を下すのが苦手というか臆病なのかもしれません。皆さんの周りではいかがなものでしょうか。

 普通の言葉ならまだしも、「いわゆる1+1は2」などと使われると、それは「いわゆる」じゃねえだろ、と突っ込みたくなります。少なくとも反感を持たれるような言葉ではないにしても、あまりに連発されると、ウルサイと同時に、この人は発言に責任を持ちたくないのかなあと疑われるので、くれぐれもご注意ください。

 とはいうものの、ボクの口癖は「だから」なんですね。時には「だーからさあー」と相当に押しつけがましい。「何でこんなことが分からないの」というニュアンスが強いので、これは大変に嫌われます。本人は論理正しく話しているつもりなのに、相手はまるで分かっていないという苛立ちも十分に含まれています。

 この「だから」を連発する人は、意識するしないにかかわらず、自分が頭いいと思っているはずなので、目上の人の場合はそのプライドを傷つけないように対処しないと逆に嫌われてしまいます。だから、ボクも「だから」を多用しないように注意しているつもりですが、ちょっと論戦になると抑えがききません。これからは、「いわゆる、だから○○は××なんです」と言ってみようかな。

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